YBSホールディングスの前身である全播磨硬式野球団は1996年(平成8年)、故大村節二氏によって兵庫県内初のクラブチームとして誕生しました。
当時はバブル崩壊後の「平成不況」と呼ばれる真っただ中で、名門企業チームが次々と撤退するなど、社会人野球を取り巻く環境は厳しいものがありました。そのような中、大村は「多くの若者に夢と希望を与えたい。卒業後も硬式野球が続けられる環境を作りたい。」として、チームを立ち上げました。
同年末に日本野球連盟から加盟が承認され、翌1997年(平成9年)からシーズンが始まりましたが、当時の兵庫県は神戸製鋼(現在は廃部)を筆頭に、新日本製鐵広畑(現在は日本製鉄広畑)、三菱重工神戸(現在は三菱重工神戸・高砂)、小西酒造(現在は廃部)といった名門が群雄割拠する時代でした。
デビュー戦となった同年3月の神戸新聞杯兼春季県大会は、初戦で田村コピー(現在は休部)と対戦しましたが、0対25の7回コールド負け、しかもノーヒットで10失策という厳しい洗礼を受けました。しかし翌日の敗者復活戦では、敗れはしましたが新日鐵広畑から2点を奪いました。そして徐々に社会人のスピードにも慣れていき、同年秋の新人教育リーグでは、小西酒造に2対0で勝利するなど「お荷物」扱いされなくなり、やがて企業チームをも脅かす存在にまで成長しました。
公式戦参入から5年目の2001年(平成13年)には、第50回伊勢神宮奉納社会人野球大会において、初戦で岐阜の昭和コンクリート(現在は廃部)を撃破すると、続く2回戦では本田技研鈴鹿(三重、現在はHonda鈴鹿)に競り勝ち、準決勝では日本生命(大阪)と対戦しました。
誰もが「快進撃もここまでか。」と思った9回表、それまで3三振だった選手が起死回生の同点2ランを放つと、さらに連打で3点を勝ち越し、そのまま相手を無得点に抑えて大金星を挙げました。続けて行われた決勝戦では、三重のサンジルシ醸造(現在は廃部)に惜敗しましたが、クラブが企業チームを3タテという快挙を成し遂げました。また、翌週の「びわこ杯」では、伊勢大会の勢いで一気に頂点まで昇り詰めました。
このように苦難や栄光を経て誕生から20年あまり。ここ数年は目立った戦績を残せていませんが、多くの皆さんに支えられ、これまで一度も大会を欠場することなく活動を続けてまいりました。これからも、兵庫最古参のクラブチームとして多くの若者に夢と希望が与えられるよう、活動してまいります。そして、皆さんに愛されるチーム作りを目指してまいります。